映画『ジョーカー』の薄っぺらさ

関連画像

※ネタバレです。

とにかく「早く終わらないかなぁ」と思いながら観ていた。
俺は、安くて中身がスッカラカンなホラー映画ばかりみていてるが 「早く終わらないかな」と思ったことは殆ど無い。安くて中身がスッカラカンでも、その多くはジャンル映画への衝動がある。俺はそれが大好きだからだ。

しかし、この映画には衝動がない。『ジョーカー』の監督のトッド・フィリップスにはあったかも知れないが、俺には全くそれを感じられない。ここにあるのはあざとさだけだ。だから退屈で退屈で心の底から「早く終わらないかな」と思った。こう思ったのは久しぶりだ。

そもそも物語が平々凡々としている。ざっくりいうと病んだ男が度重なる不幸で、完全な狂人になるというお話。良くある話ですね。えぇ、良くある話です。

こんなことを言うと殆どの映画は、凡庸になってしまう。だから映画の面白さというものは、その凡庸さをどう魅せるかにかかっている。で、『ジョーカー』はどうか?これがトコトンなってない。全くなってない。

普遍的な不幸にさらされ、狂気に追い込まれている姿を見せて、観客を共感させ、主人公と同化させるという目論み見え透いている。

特異な精神障害に悩まされているとか、母親の介護で参ってるとか、良い人過ぎて同僚にイジメられているとか、凡ミスで仕事をクビになるとか、人気TV番組の司会者に玩具にされるとか、どこかで見た様な不幸を淡々と羅列されていく。これが、上手く繋がっていれば良いのだが、それぞれ全く絡んでいない。
これだけ羅列すれば、どれか一つくらいは観客の同情を買えるだろうといった具合で、あれがありました、これがありました、それもありました……。しまいにゃ主人公に「つらいのはもう十分なんだ」と言わせる始末。
あちこち散見される社会批判の記号的な表現(たとえば立派な劇場で金持ち達がチャップリンをみて笑っている場面 )も取って付けたようで「おー、政治不信、格差格差、社会派ですねぇ。はいはい。」といった具合。

いちばんお寒いのが、最後10分くらいで突然ジョーカーことアーサー君は、暴動の最中、庶民の怒りのアイコンとして祭り上げられていくくだり。

「ほら、ただのキチガイがヒーローに祭り上げられていくよ!怖いよね!これが世の中!怖いよね!」

あまりに性急すぎて「え?こんなに取り急ぎ?あ、はい。こわいですね。」と寒さ満点。ホアキンの芝居に頼りすぎなんですよ。彼の芝居の勢いが、この映画の荒っぽさや薄っぺらさをボカしているんです。

それに悪意や怒りの正当化を描く場合の素材として、そもそもジョーカーである必要があったのか?ジョーカーとは100%混じりっけ無しの悪人ではなかったのか?

ロブ・ゾンビの『ハロウィン』以降、悪人に確固たるバックボーンを持たせることが珍しくなくなったが、この映画が評価されるのであれば『フォーリング・ダウン』、『ローリング・サンダー』、『丑三つの村』、極端な事を言えばウーヴェ・ボルの『ザ・テロリスト』も再評価されるべきだと思う。少なくとも時代性を伴っているからだ。

“こっち”よりも”あっち”とか、逆張りしたいとかそういうことではない。今、ジョーカーというキャラクターを使って、普遍的な不幸を、狂気を、過去の時代を舞台に描く必要があったのか?と思う。
前述した「普遍的な不幸にさらされ、狂気に追い込まれている姿を見せ、観客を共感させ、主人公と同化させる」という目論みがあるのなら、せめて21世紀を舞台にしてくれたら、俺の評価は変わっていたかも知れない。

『ディープ・ブルー』とホラー映画のクリシェの話

ギッチョくんが死亡フラグの話の中で『ディープ・ブルー』の話題を出していたので、思ったことをつらつらと。

『ディープ・ブルー』におけるサミュエルの早死は、「誰が死ぬかわからない」という一般の死亡フラグとは別のホラー映画独特の死亡フラグに基づいたものだ。死亡フラグというよりは、ホラー映画の典型的なクリシェで、「ロンドンはいつも曇っている」とか「橋田壽賀子のドラマの長ゼリフ」レベルのもの。ちなみにサミュエルは、この件について「俺はギャラが高いからな!」と一般的な死亡フラグを示唆するコメントを出している。
また当初、サミュエルに与えられた役は、最終的にLLクールJが演じる事になるコックだった。もちろんこのコックは最初から死ぬ予定ではあったが、サミュエルのエージェントが「コックの役は嫌だ」と言い出したために、設定が会社社長に変更になったという経緯がある。そして、この変更は、良い方向に作用した。クリシェといえども、会社社長がリーダーシップを発揮した矢先に喰い殺されるのと、生意気なコック爺が説教中に喰い殺されるのとでは、観客に与えるショックは段違いである。
サミュエルの役柄変更後も、コックの役は脚本に残り、LLクールJが演じることになっても早死する予定だったのだが、映画を見ればわかるように変更になっている。この理由は実に単純で「LLクールJが面白かったから」である。この辺りはDVDのコメンタリやIMDBのトリビアが詳しい。
折角なのでもう一つネタを。
このサミュエルの件に反して、ヒロインの科学者スーザンは当初、死ぬ予定ではなかった。これが変更になったのは、スニークプレビュー後だ。何故、彼女は死ぬことになったのか?それは、観客の顰蹙を買ったからである。
『ディープ・ブルー』では、高度な知能を得てサメが災厄を引き起こすのだが、これはスーザンが国際条約に違反した実験を行った結果である。つまり、スーザンが妙な実験さえしなければ、一連の惨劇は発生しなかったわけだ。
スニークプレビューの観客は、そんな悪者が生き残るなど、よしとしなかったのである。

下着姿になったところで、悪事は赦されないのだ。

「全ての元凶である彼女は、死ななければならない。」

制作サイドは取り急ぎ追加撮影を行い、結果はご存知の通り。ただ食われるだけでなく、因果応報と言わんばかりに、体を真っ二つに食い割かれる残酷な死にっぷりで観客も大満足というわけだ。

知識マウントみたいになって、恐縮なのだけど、死亡フラグという意味では、『ディープブルー』は、経緯が少し特殊な映画なのです。今日言いたいことは、そのくらいです。

ちなみに、ホラー映画における死亡フラグは、ギッチョくんが紹介していた『ホット・ショット』から遅れること5年、『スクリーム』でようやくネタにされることになりますが、あれは70年代末期から80年代初頭にかけてのごく一部のスラッシャー映画のみに適用される法則です。本当のスラッシャーは法則もへったくれもなく、人は平等に無価値で皆殺しが基本なのだ。本当はそっちを書きたかったのだけど、またそのうち……。

『沈黙 -サイレンス-』で嫁ちゃんとお話したこと

 ホラー映画じゃないので、こっちで書きます。『沈黙』を見たんですよ。はい。

 「弾圧されて、拷問されたり処刑されたり差別されたりしているのに、何故、神は救いの手をさしのべてくれないのか?」

 知るかボケ!俺の認識ではキリスト教はいまでも世界中で争いの種を振りまいている癌なので、やり方は別にしても、当時のキリスト教排除は正解だったと考えている。

 それはさておき、『沈黙』に登場する連中は実に身勝手だ。ちょいちょい現れては告解を要求するキチジローは一本筋が通っているので良い。しかし、他の連中はどうよ。布教こそが神の意志だの、生まれた瞬間にはパライソにいるだの好き勝手に教えを曲解している。その果てに「何故、神は我々を救わないのか?」ときてる。ほんとにこいつらアホじゃないのか。

 「そりゃあ、”お前の中の神が死んだからだろうが!”」

 と苛つきながら嫁はんと話をしていたら、彼女が突然「ナマニクよ。それは違うぞ!」と言い出した。曰く

 「あれは、”神の救済”と”各々の救済”の齟齬。神に判断を求めているようでは、まだ救済の必要は無い。自らの無力を認め、神すらも自分自身から消え去った時にこそ、慈愛がまっている。新訳聖書のマタイの福音書に”貧しいやつは幸せだ”とかそれっぽいことが書いてある。」

嫁ちゃんは、子供の頃に教会通いだったので、ちょっと詳しい。聖書を引っ張り出して見てみると”それっぽい”ことはマタイの福音書 第5章3節にあった。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです 

ウチにはボロい聖書があって、ホラー映画の元ネタ探しなどに便利なのでたまに読む

うーん。これだけではちょっとワカランので、文献をあさって調べてみる。
どうも”心の貧しい人”とは支えや誇りとなるものを何も持っていない人のことのようだ。そして”天の御国”というのは救いをさすらしい。つまり、あのイエス野郎はこう言っているのだ。

どんなに貧しい者であっても、誇るべき者を何も持っていなくても私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。だから、それを喜び安心して生きていけ。

こう考えてみると、『沈黙』の後半、ロドリゴが踏み絵に足をかけ「転ぶ」場面に登場する「踏みなさい」に繋がる。転んだロドリゴは信念に背を向けたまま天寿を全うする。日本に残った最後の司祭という想いを胸に抱きつつ”自分にできることはもう何もない。”と絶望したまま死んだ彼。それは彼らの聖典の解釈によっては、救いだったのかもしれない。

なるほどなあ。こういう面でキリスト教は面白いなあ。世界の癌だけど。

ありがたいことを教えてくれた嫁ちゃんのレビューはFilmarksで読めます

何かにドン詰まったときに、神……というか、なんでもいいから超自然的な上位の存在が心の支えにできるってのは悪いことではないんだよなあ。俺は信じてないけどさ。

ナマニクの音楽映画ベストテン

毎年恒例のイベント、ワッシュさんのベストテンシリーズです。
音楽映画ベストテン – 男の魂に火を付けろ!
いやあ、いつも頭のネジが2,3本飛んでいる映画しか観ていない俺。当然のことながらミュージカルは完全に畑違いなので詳しくないです。しかし、音楽がキーになっている映画であればば良いということなので、こんな感じにしてみました。いつものことですが、順不同です。

未知との遭遇


「はあ?」と言われますか?そうですか。でもですね、何故ですかね、音楽映画というとコレが真っ先にうかんでしまったんですよ。「サントラじゃねぇか!」と言われそうですが、ちゃんと音で会話するんだからいいでしょうが!レーミードード↓ーソー!

キッズ・アー・オールライト


ザ・フーというとやっぱり「トミー」が浮かぶでしょう。でも、ザ・フーはライブなんですよ。キース・ムーンが急逝した直後に公開されたため、彼の追悼映画という趣があり、明確には語られないものの、次第に彼がアルコールでぶっ壊れていく様は観ていて何とも言えない気持ちなります。その部分を含め、キースばかりが注目されがちですが、ピート・タウンゼントをの目を見てください。バンドの行く末を憂う彼の目、完全に病んでますよ。また唯一、薬に縁が無く、音楽だけでなく芝居に活路を見いだしたロジャーの生真面目っぷりさも良い。

ライムライト


音楽映画か?といわれると困るけど、イワシ……じゃなかった春の歌が好きなので。

ファントム・オブ・パラダイス


俺はジェシカ・ハーパーを愛しているので。それ以外は言うこと無いです。

ミート・ザ・フィーブルズ 怒りのヒポポタマス


間違って幼稚園児に見せたい。

絶叫のオペラ座へようこそ


こんなモノを糞真面目に、しっかりとしたスラッシャーに仕上げて、ホントバカなんじゃないかと思う。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ


見るたび「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーー!」となってしまうんだなあ。痛くて観てらんないんだけど、いつも最後まで観てしまうんだなあ。

ショック・トリートメント


ロッキー・ホラーショーより好き。楽曲の良さはこちらの方が俄然上。
話がファンパラと被ってるけど、いいんだよ。ほら俺、ジェシカ・ハーパー愛してるから。
ロッキー・ホラーショーを知っていないと楽しめない所があるのが難点

キャバレー


ライザ・ミネリも今ではあんなになってしまったけど、これでは最高。
姉が劇団をやっていた時、サリー役をやってのけたという思い出もある。

サウンド・オブ・ミュージック



ロルフのクズっぷりが最高。彼の傾倒っぷりで飯三杯はいけるね。

以上!よろしくお願いします!

「Mommy」を観たよ

〜You’re my wonderwall〜

cap00040

息子にとって母親の存在は絶対だ。母親というのは息子に対して無償の愛を注ぐ。俺は女ではないし子供もいないが、息子ではある。だから母親が息子を守るためには手段を選ばないことも知っている。
「母親の愛は永遠に続く、でもあなたの愛はいつかどこか違うところにいってしまう」
ダイアンが息子スティーブンに対しての言う台詞だ。母親はいつか息子が遠くに行ってしまうことを承知している。しかし、息子はそのことには気がつくことはない。自分の愛がどこか違うところに行くまでは。

冒頭、洗濯紐にかけられた下着には「love for sale」の文字がある。
これはジャズのスタンダードナンバーとなっておるコール・ポーターの曲のタイトルだ。
その歌の内容はこんな感じ。

Love For Sale

恋を売ってあげるよ。お腹が減るような若い恋、買わないかい??
新鮮でまだ傷んでいない恋、まだ汚れていない恋、
恋を売ってあげるよ。

買ってくれるのは誰?
試食してみようというのはだれ??
天国への旅の代金を払ってみようというのはだれ?
恋、買わないかい?

詩人さんたちには、ガキっぽい愛の歌を
歌わせておけばいい。
私はあの人達よりずっとずっと、
いろんな形の愛を知っているよ。
あなたが恋の興奮を望んでいるなら、工場直送の私がオススメ。
古い恋、新しい恋、あらゆるタイプの恋を取り揃えているよ。
本当の恋以外は。

恋を売ってあげるよ。お腹が減るような若い恋、買わないかい??
私を買う気があるんなら、いらっしゃいな。階段の上へ。
恋を売ってあげるよ。

この曲が発表されたのは、クッソ不景気だった1930年。仕事が無くなり貧民に堕ちた人たちはリンゴを売り歩いていたという。言わずもがな、「恋」「リンゴ」相互変換が可能であり、ちょっとお下品と思われたのか、当時は放送禁止を喰らっている。

この「Love for Sale」の言葉が提示された直後、ダイアンは裏庭の木からリンゴを摘み取るのである。

cap00041