歳のとりかた

 ”歳をとる”ということを笑いの種にする文章が大嫌いである。ひどいレビューを読んだ。先日『狂った蜜蜂』こと『Orgasmo』こと『Paranoia』(伊本国タイトル)を観たので、あちこちのレビューを漁っていたのだが、キャロル・ベイカーの役柄を”のぼせ上がったオバサン”という体で書かれているレビューを読んでしまったのだ。レビューそのものは知識が深く、面白く書かれているのだが、どうにもオバサン、オバサンと連呼する書きっぷりが鼻についてイライラしてしまった。60前後の有名な書き手だった。

 四十過ぎの連中が歳をとった人々を”ジジババ”呼ばわりするのは、若い連中が大人と”ジジババ”呼ばわりしているのとは訳が違う。若い連中が”ジジババ”に「ジジババ」と言うのは仕方のないことだ。そういう年代だから。

 しかし、若い人に”ジジババ”呼ばわりされている連中が、自らの年代あるいはそれ以上の人々を”オジサン”とか”オバサン”などと言って卑下したり、笑い者にするのは”自分の歳のとりかた”に自信がないことの現れだ。こういう類の中年はこう考えているのだ。

”オジサン”、”オバサン”=”坊ちゃん”、”嬢ちゃん”

 要は未発達あるいは未熟の言い訳にできるし、裏を返せば、未発達、未熟であると冷笑できると言う考えだ。最低だと思う。また、少なくとも『狂った蜜蜂』のキャロル・ベイカー は高飛車で自己中であるものの、上記のような”オバサン”ではない。なぜなら、この映画におけるキャロル・ベイカーは「計算高い毒婦であるにも関わらず、毒を持っていることに疲れてしまった」可哀想な女性だからだ。あ、今、うっかりネタバレしましたけど、その辺りを考えると邦題の『狂った蜜蜂』はよくできたタイトルだなと。

 少なくともキャロル・ベイカー が”オバサン”の役柄だったことは一度もないと思う。渡欧時代はちょっとくらいヤバかったかもしれないが『アンディ・ウォーホルのBAD』でアメリカ映画に復帰して以降、『ゲーム』まで常に綺麗で面白い役を演じていた。

 歳のとりかたは人それぞれだが、まともに言葉選びができない人間にならないようにしたいものだ。

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